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Manackさんの音楽がすばらしいのです。


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ぼくのはともかく、とりしもさんの絵は楽しいですよ〜


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ぼくが絵を描いているゲームの宣伝です。恐れ入ります、9/24発売です。

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■安易な規制強化に対し、廃屋譚は断固反対します。
 一部報道で、陵辱系ゲームの絶滅を自主規制団体が決定した、と聞きました。事実関係はこれから確認しますが、本当だとしたら大変なことです。誤報であることを信じたいところですが、状況は予断を許さないかもしれません。(同日15:30追記■ソフ倫から公式な声明があり、誤報が確定しました。TBSの報道内容は事実無根です。TBSは早急に訂正と謝罪をするべきです。)
 ぼくもソフ倫に加盟しているブランドで絵を描いているので、噂はちらほら聞こえてきます。守秘義務があるのでその内容は言いませんが、正確なことは来週中には把握できると思います。状況を正確に把握した上で、現実的な問題は現実的に考え、行動して行ければと思います。
 現実的な問題は現実的にきちんとやるとして、それとは別に思想的な問題も明らかにしておく必要があるように思います。明らかにすべき一つは、「レイプ」というテーマに関して、この問題が持つ「近代の抑圧」という性格です。M・フーコー理論の射程内の話になります。もう一つは「オナニー」というテーマに関して、逆説的ですが、「近代原理の拡大」による反抗の議論です。具体的には「オナニーの権利」の確認がいまこそ痛切になっているという主張です。

▼「レイプ」について−近代の抑圧性
 こんなものは、M・フーコー『監獄の誕生』『性の歴史T 知への意志』を読めばいいだけの話ではありますが。よく人々が言うように、権力は「性」を抑圧しようとしているわけではありません。「性」をテコに、権力を作動させようとしているだけです。フーコーが「生-権力」と呼んだ微少権力が目指すものは、「一夫一婦制」なり「核家族」を正当な家族形態とした社会秩序の形成であり、そこを土台とした近代原理(具体的には資本主義)の完遂です。近代原理に貢献しない家族形態は、「異常」と「狂気」のレッテルを貼られ、排除と抑圧と矯正の対象となります。M・フーコーはその具体例として「同性愛」と「ロリコン」を取り上げたわけです。資本主義が成立していなかった時には「同性愛」や「ロリコン」は異常でもなんでもなかったが、近代原理成立以後にそれが「治療」の対象になったと、実証しています。
 じゃあ、レイプは。これも、近代性の問題です。具体的には、前近代の「夜這い」を考えてみればよいでしょう。「夜這い」は前近代においては異常でも違法でもありませんでしたが、近代以後は犯罪です。なにがどうあっても犯罪です。
 いいことか悪いことかに関して言えば、現代では「夜這い」は悪いことに決まっているのですが、その価値観が「歴史的に形成された」ものであり、「普遍性」を持っていない「近代に固有の価値観」であることは、まず認識するべきです。
 今回の一連の流れは、まず近代の問題として議論を尽くすことのできる対象です。

▼オナニーについて−独身男性の権利
 かつて、女性に人権はありませんでした。さらに遡れば、貧乏人には人権がありませんでした。さらに遡れば、奴隷に人権はありませんでした。人間は、徐々に人権の範囲を拡大しようとしてきています。今では、クジラにも人権を認めようと主張する馬鹿野郎どもも存在するくらいです。
 その中で、いま最も人権が侵害されている弱者は誰でしょうか? 独身男性です。そして独身女性です。独身者は、最も酷い目に遭っています。なぜなら、近代社会は「一夫一婦制」を正当な家族形態として認め、それを基盤に成立しており、そこからはみ出す「異常」な者に対しては何らかの形で制裁を加えるような仕組みになっているからです。この制裁は、「近代」になってから作られた社会構造全般に、根底から行き渡っています。経済にも、政治にも、教育にも、全てに行き渡る近代原理です。
 だから今、まさに独身男性たちから「オナニーのネタ」が一つ、奪われようとしているわけです。「正常」を自称する多数の強者によって、「異常」のレッテルを貼られた弱者(男性独身者)のオナニー権が侵害されているわけです。これが民主主義の暴力という奴です。
 「人権」の本来の意味は、「どんなに民主主義的な手続きを経て多数になったとしても、その力で少数者を絶対に抑圧してはならないことのリスト」です。だから、どんなに民主主義的に正しい手続きを経て多数者の立場になったとしても、少数者の生命を奪ったり財産を奪ったりすることは許されないわけです。じゃあ、民主主義的に正しい手続きを踏んで多数になった偉い偉いお前たちではありますが、少数で弱者で日陰者である我々の「オナニーのネタ」を奪っちゃうことに何か「人権」的な問題はないんですか?
 私たちは少数で弱者で日陰者で、政治的にも経済的にも毎日痛めつけられ続けているんですから、オナニーくらい、自由にさせてください。

▼この問題に言及している人へのコメント
転叫院ブログ:「人権」という近代性のタテマエなんてものはどうでもいいので、そのタテマエを前提から破壊するポストモダン的な議論か、そのタテマエを逆手に取る運動論を期待します。この問題は、独身男性に対するテロだと認識するべき何かかも知れないんですよ?
(2009/5/29=本来なら姫プリ発売日だった日)

■TBS誤報、ソフ倫声明のソース
 5/29の15:08に、LOVERSOULの事務所に「TBS報道は事実無根」という内容のFAXが届いています。全文をスキャンまですることはないかと思いますが、署名入りの上に発送元FAX番号もあっているので、誰かの偽造ってことはないでしょう。
 ただ、今回はTBSが先走っただけとはいえ、規制強化の動き自体が弱まっているわけではありません。油断せずに、確実に情報を集め、適切な方策を立てていくよう、慌てず騒がず冷静に考える時間帯のように思います。とりあえずは来週の情報収集が重要ですね…(5/30)

■陵辱系ソフトの製造販売禁止
 手許にFAXが2枚ある。1枚は日付は6/4になっているけど6/3に届いたもので、「部外秘」と書かれている以上、内容は秘密だ。そして、時を同じくして、陵辱系ソフトの製造販売が禁止になった、と報道された。
 もう一つは5/29の15:08に届いたもので、「部外秘」とは書かれていない。TBSの誤報を主張するソフ倫のFAXだ。
 さて…
 ここからは、メーカーとしてのLOVERSOULとは無関係の、ぼく個人の意見。メーカーとしては、もはや是非もへったくれもないから、無意味な発言はしないほうがいい。だからみんな黙っている。黙っている方が、業界全体の利益になると、判断せざるをえないから。
 でも、クリエイターである個人として、いろいろ思うところはある。王様の耳はロバの耳だ。黙っちゃいられないことがある。
 まず陵辱系ソフトの製造販売禁止という内容そのものに入る前に、この手許のFAXを、どう整合的に解釈すればよいのだろう? TBSの報道は6/2には真実となっているのに、5/29にソフ倫がそれを完全に否定しているのはどういうことなんだろう?
可能性としては、(1)5/29には実際には製造販売禁止が決まっていたのに、メーカーに対してソフ倫が二枚舌を使った。(2)5/29には製造販売禁止を決めていなかったが、3日間で方針が変更された。(3)このFAX自体が誰かの偽造だ。
 どれもこれも本当だったら恐ろしいことだけれど。一番いやなのは(1)だな。とはいえ、今となっては真相は藪の中か。(6/4)

■レイプに関して、参照されたので、個人的な返答
 意味不明。前近代の話をしているときに、近代小説を推薦して何がしたいのか?
 ちょっとでも社会科学的素養があるのならば、話題にすべきはアリエスでありフーコーであり赤松啓介であることは、自明だ。近代小説家が割り込んでくる余地はない。仮にあったとしても、優先順位は限りなく低い。フーコーちゃんと読んでる? (6/5)

■個人的に激しく勃起したレイプ描写5選
(1)長谷川裕一『童羅』
 手塚治虫から藤子・F・不二雄を経て宮崎駿へ連綿と続く日本ロリコン魂だが、それを最も正当に引き継いでいるのは長谷川裕一だと思う。いまAmazonを見たら、中古で激しくプレミアがついていやがった。そりゃ、そうか。
(2)矢萩貴子『仮面舞踏会』
 レディースコミック。99%のゴミの中から生まれた1%の珠玉。元の単行本をAmazonで確認したら、やっぱりプレミアがついていやがった。そりゃそうだ。
(3)船戸明里『Under the Rose』
 眼鏡っ娘がレイプされてしまうわけだが。いや、これがすごいんですよ。精神的なレイプという点では、これが最凶かもしれない。
(4)三浦健太郎『ベルセルク』
 問答無用の物理的暴力によるレイプという点では、これが最凶な気がする。
(5)原作:和田慎二/絵:浜田翔子『神に背を向けた男』
 本来なら五指に入るような作品じゃないんだろうけれど。なんだか印象に残っているから仕方がない。少女マンガや女性マンガにはいくらでもレイプは出てくるけれど、なんでこれがいちばん印象に残っているのかな。和田慎二がすごいってことでいいかな。(6/6)

■少女マンガのレイプ描写に見る前近代性
 少女マンガでは、よくレイプが描かれる。これを以て「女には被レイプ願望がある」と主張する馬鹿野郎がいるが、もちろんこれは誤りだ。おそらく正確には、性的コミュニケーションの「前近代的」な形態、つまり「夜這い」の変奏としてレイプ描写が選択されているにすぎない。少女マンガのレイプ描写は「女の本質」を表現しているものではなく、前近代性の噴出と捉えるべき事態だ。
 思いつきで主張しているわけではない。おそらく日本で最も「少女マンガのレイプ描写」に詳しいのは、ぼくだ。たとえば、日本の少女マンガで最初に描かれたレイプ描写を突き止めたのは、ぼくが10年ほど前に書いた記事だ。日本の少女マンガで最古のレイプ描写は、『りぼんコミック』1971年1月号に描かれた、もりたじゅん「しあわせという名の女」という作品だ。詳しくは、ぼくが書いた「誰が最初に少女マンガで強姦を描いたのか」という記事を参照していただきたい。
 70年代の少女マンガのレイプに共通しているのは、その「近代性」だ。『生徒諸君』にしても、一条ゆかりの諸作品にしても、非常に近代的だ。レイプによって、被害者は人格的に回復しがたいダメージを負う。近代的自我を持つ主人公なら、当然のことだ。レイプは、近代的自我にとっては、殺人に匹敵する最悪の犯罪だ。
 しかし問題になるのは、1980年代半ばから登場し始めた、『週刊少女コミック』に顕著に見られる、「レイプされて少女が喜ぶ」ようなマンガの増加だ。これを見て「女には被レイプ願望がある」と言い出す奴も出てきた。しかし当然それは間違っている。実際に進行していたのは、宮台真司が言うところの「近代の成熟」であり、前近代性の噴出だ。
 70年代初頭から80年代半ばまでは、「ほんとうの私」という概念を核とする少女の自己実現が、少女マンガの中心的なテーマだった。しかしこういったいわゆる「乙女チック少女マンガ」の説得力が80年代半ばから失われていく。なぜか。「乙女チック少女マンガ」が描いていたのが、「近代」だったからだ。乙女チックの世界観を支えていたのが近代原理だからだ(その近代原理の中身は、ひとまずはカントの実践理性批判的なものと定義しておく)。世の中の「近代」が説得力を失うと共に、近代をテーマとした少女マンガが後退するのは当然のことだ。
 乙女チックの衰退と入れ代わりに浮上してきたのがレイプ描写なのは、もちろん偶然ではない。この時期からいわゆる「援助交際」が浮上してくるのも、偶然ではない。「近代的自我」に代わる世界観が、80年代半ばから説得力を持つようになったわけだ。このあたりは社会学的には上野千鶴子を読むといい。
 80年代半ば以降に少女マンガに描かれた「レイプ」は、形式は「レイプ」とはいえ、70年代の「レイプ」とはまるで違う。人格に対するダメージが、圧倒的に少ない。なぜなら、それは本当は「レイプ」ではなく、「予定調和の性交」に過ぎないからだ。そして、「形式的にはレイプだが、実際は予定調和の性交」という性コミュニケーションを、我々はよく知っている。かつて、我々はそれを「夜這い」と呼んでいたはずだ。
 前近代の「夜這い」という性コミュニケーション形式が復活したのは、「近代的倫理観」への動機付けが、「成熟した近代」の中で失われたからだ。説明すると長くなるので、まずは宮台真司を読むようにとだけ言っておく。
 こうして、表面上は「レイプ」という描写が少女マンガに溢れるようになった。しかし実際に展開しているのは、前近代に我々の先輩が行っていた「夜這い」と変わらない性コミュニケーションだ。

 さて。『レイプレイ』の問題は、「レイプされた女が次第に喜ぶようになる」ところにあると言っている人がいる。ふむ、「レイプされた女が次第に喜ぶようになる」という性コミュニケーションを、我々はよく知っている。かつて我々は、それを「夜這い」と呼んでいたはずだ。
 「レイプされた女が次第に喜ぶようになる」のは、もちろん「女の普遍的な本質」などではない。それは、「前近代という特殊な時代におけるローカルな価値観」に過ぎない。そしてそのような特殊でローカルな価値観が、『レイプレイ』だけでなく、少女マンガ一般にも表れていることに注意すべきじゃないか? ゲームにもマンガにも「援助交際」にも共通していること、それは「日本の伝統的な性倫理」の復活、ヨーロッパ近代から見たら「特殊」で「異常」とされるローカルで「伝統的」な価値観の復活だ。(6/6)

■『レイプレイ』に関して発言している人に対する、コメント
 『レイプレイ』に関する佐藤亜紀日記について、事実としておかしいところが2点。
(1)「レイプ」というものが「女性に対する憎悪」に起因しているという主張は、少女マンガやレディースコミックに大量に「レイプ」が描かれているという厳然たる事実を、説明できない。補足するならば、女性作家が「女性に対する憎悪」を持った場合に選択されるジャンルは「やおい」であると、かつて中島梓は言った。「やおい」の隆盛は、女性自身が女性を憎悪している証拠にはなりえる。女性メディアに顕れた「レイプ」は、別の原理によって支持されているはずだ。そしてその原理は、おそらく「陵辱エロゲ」にも働いている。
(2)佐藤の言う「陵辱エロゲ愛好家の皆様」が目指しているのは「家父長制」ではない。断じて、ない。佐藤の言う「陵辱エロゲ愛好家の皆様」こそ、家父長制からもっともパージされている存在だ。(だから転叫院の言う「男根主義」も、本質的に間違っている)。家父長制からパージされた独身男性のことを、「非モテ」と呼んでいたはずだ。家父長制の夢にどっぷり浸かっているのは、実際に強姦事件を起こしてしまうアメフト部のようなリア充のことだ。リア充と非モテは、「家父長制」に対して本質的に違う立場にある。そんな「陵辱エロゲ愛好家の皆様」を「家父長制」でくくっている時点で、本質を見誤っている。

 補足するなら、「表現の自由」に対する見解は、佐藤亜紀論に似ているように思う。1991年の「有害コミック問題」から地道に資料を集めてきたが、「表現の自由」を旗に戦うことは、この件に関してはあまり意味がない。(6/7)

■「レイプ」について議論するための超基本的な予備知識
 本格的に誤読されているようなので、詳述しておく。ちなみに以下に述べる事項は社会学の領域では「常識」に属する。上野千鶴子にしろ宮台真司にしろ佐藤俊樹にしろ竹内洋にしろ苅谷剛彦にしろ、異口同音にほぼ同じことを言っている。この「常識」を誤読されたことは、社会学がいかに「ローカル」な知識かってことの証拠なんですかね。
 さて、以下の図は、日本の「道徳」の歴史についてのイメージだ。

 もともと存在した「伝統的な道徳」は、明治維新を契機とした「近代的な倫理」の導入により、表面上は消える。「伝統的な道徳」と「近代的な倫理」の融合した姿が、いわゆる「教育勅語」だ。そして「近代的な倫理」は、もともと高学歴層にしか受容されていなかったが、高度経済成長期には一般庶民にまで広がる。しかし、消えたかに見えた「伝統的な道徳」は絶滅したわけではなかった。ふとしたことから顔を覗かせる。それを「ホンネとタテマエの二重構造」などと呼ぶ。
 このような二重構造は、石油危機を境に消失していく。というのも、「近代的な倫理」の説得力が失われ、再び「伝統的な道徳」が堂々と表に露出するようになったからだ。これを上野千鶴子は「道徳の先祖返り」とか「地金の露出」と呼んでいる。念のため、宮台真司の議論を引用しておこうか。
社会学的な常識を言うと、道徳は、道徳教育によってではなく、共同体によって維持される。一般に、同じ共同体に属する人々の視線に規律されることを「道徳」と言い、逆に、メンバーに後ろ指をさされても殺されようとしても内なる声に従うことを「倫理」と言う。一神教的な伝統のないわが国を律してきたのは道徳だ。だがこうした「郷に入りては郷に従え」的な態度は「旅の恥はかき捨て」と裏腹。共同体のまなざしが存在しないところでは何でもできてしまうのだ。「妓生観光」の買春オヤジから、バブル期のOLがタイでガイドの若い男を買いあさる「リゾラバ」ブームまで、こうした日本の「伝統的態度」はすでに世界中に知られている。(中略)その意味では昨今の売春女子高生の「恥を知らない」振る舞いの作法も伝統的なものだ。
宮台真司『まぼろしの郊外』文庫版120頁
 そういうわけで、「前近代」や「伝統」という言葉は、「社会学的な常識」の範囲で使用している。さらに付言すると、比喩的な意味で使用しているわけでもなく、学問的な背景がある用語として使用している。しかしこうした用語が所詮は社会学のジャーゴンで、共同体の外にいる人に曖昧に見えてしまうのは、残念ではあるが仕方がない。不用意だったとすれば、転叫院にはこのジャーゴンが通じるはずと前提して書いたテキストが、ジャーゴンを共有しない外部を刺激したことだろう。(6/8)

■「レイプ」について議論するためにそれほど必要がない予備知識
 「前近代」という概念が共有されていないので、もうちょっと語る。社会学に対して義理はないけれど、人文・社会科学系の学問全体に関係することなので、もうちょっと敷衍しても罰は当たらないだろう。社会学に限らず、人文・社会科学全般が「近代/前近代」という分析軸を用いるのは、単に「現象把握」のためだけではない。日本の知識人のアイデンティティがそこに存している。
 明治維新以後、日本は欧米に追いつくための努力を重ねた。福沢諭吉以来、「近代的個人」を創出するための涙ぐましい試みが続けられている。しかしそれは失敗と挫折の歴史だった。歴史学者(中世西洋史)の阿部謹也の本を読むといい。いかに日本人が「近代的でない!」かの呪詛に満ちている。丸山真男の政治学や大塚久雄の経済学の時代なら「日本は近代化すべし」との号令にも多少の説得力があったかもしれないが、阿部に至ってはもはや呪詛の言葉を並べるしかない。日本は「強固な前近代性」の前に、「近代的個人」の創出に失敗したのだ。この挫折と失敗の140年間の歴史を共有できたときに、「俺たちの前に立ちふさがる大きな壁」として、初めて「前近代」を意識できる。
 ただここで興味深いのは、「社会学」という学問が「政治学」や「経済学」とは違う見解を示したことだ。政治学や経済学は、日本が近代的個人の創出に失敗したことを嘆き、どうすれば前近代的な遺制を破壊できるのか、どうすれば日本が近代化できるのかを考えた。しかし社会学は、「近代的個人など創出しなくても社会の近代化は可能だ」という理論を示した。古典的な政治学や経済学は、「近代的個人」という「OS」の上に立って初めて「近代社会」が作動すると考えた。しかし社会学は、全然別の「OS」の上でも「近代社会」は作動すると主張した。これがいわゆる「社会システム論」となる。宮台真司とその師匠は、「近代的個人」とは異なる仕組みで「近代社会」が作動する「OS」のことを、「天皇制」と呼んでいる。
 宮台は、丸山歴史学や大塚経済学の研究実績を踏まえ、それを超える理論的な立場に立った上で、「前近代を克服する必要なし」と主張できるようになったわけだ。宮台に限らず「訓練された学者」が使用する「前近代」という用語には、こういった「学問の歴史」が濃厚に貼り付いている。単なる「現象把握」のために、思いつきで「前近代の影響」を持ち出しているわけではない。いいことか悪いことかは別として。(6/10)

■陵辱ゲーム規制問題に関して、「表現の自由」を語っている場合なのか?
 「表現の自由」に関しては、既に松文館裁判で論点が出尽くしているように思う。松文館裁判を知った上で「啓蒙」活動している人はともかくとして、知らない人は勉強してから発言しても損はしないように思う。そうとうに雑な意見が垂れ流されているように見える。
松文館裁判まとめサイト とくに、ちばてつや証言、宮台真司証言、藤本由香里証言は必読。
松文館裁判に関する座談会。故・米沢嘉博と主任弁護士・山口貴士の証言など、資料的価値もある。
 読んでいただけただろうか。陵辱ゲームに関してネット上で繰り広げられている議論とは比べものにならないくらい、精緻な議論が展開されていることが分かるはずだ。そしてさらに興味深いのは、ここまで周到に理論武装したところで裁判には負ける、という事実だ。「表現の自由」一本槍では、勝負に勝てないことが既に分かっている。
 本気で勝とうと思ったら、「表現の自由」だけではダメだ。勝つためには、「レイプそのものの分析と語り」が必要条件だろう(ただし十分条件ではないだろう)。
 あるいは、裁判に負けたところでエロマンガ全体にはいっこうに影響がなかった、という事実に目を向けても良いかもしれない。本当の戦いは裁判所で起こっているわけではないのかもしれない。(6/11)

■「レイプ」そのものに対する予備知識
『強姦の歴史』という本について。フランス語原本は1998年出版、日本語訳は1999年出版。
 主にフランスにおけるレイプについて、アンシャン・レジームから20世紀までの裁判記録や新聞記事などに見られる具体的な事例を収集し、検証・分析している。簡潔にまとめると、
(1)旧体制(〜1790年頃):暴力自体が容認される傾向にあり、レイプは犯罪として意識されにくかった。特に成人女性に対するレイプは罪を問われにくかった。
(2)初期近代(〜1870年頃):子どもに対する意識が上昇し、子どもへのレイプが問題化され始める。さらに罪の構成要素の重点が、「所有への侵犯」から「自由意志への侵犯」へと移行する。
(3)近代後期(〜1920年頃):心理学の発達に伴い、レイプの精神的被害に関心が集まる。加害者の性格に対する関心も高まり、精神医学的な分析と描写が増大する。
(4)現代(1970年頃〜):男女関係の社会的変化等により、成人女性や家族内強姦も犯罪と意識されるようになる。子どもへの強姦殺人事件に対する関心が高まり、加害者像に大きな変化が起こる。
 大雑把にまとめれば、レイプが重大犯罪だと認識されるまでに3段階の変化がある。つまり(1)自由意志の浮上→(2)精神医学の台頭→(3)男女平等意識。逆に言えば、これがないところではレイプは犯罪と認識されにくい。

 全体的な理論枠組に関しては、アリエスやフーコーを超えるものではない。理論的枠組に関心がある場合は、この本よりも先にアリエスとフーコーを参照すべきだろう。また学術的な記述スタイルに終始しているので、そういう類の本を読むトレーニングを積んでいない人にはお勧めしない。
 細かい点では、豊富な事例は様々な示唆を与えてくれる。たとえば、フランスでも初期近代から「教師」や「司祭」による強制猥褻が非常に多かったという事実。また、子どもに対する連続強姦殺人がフランスでも発生し、多大な関心を集めたという事実。こういったフランスの事例を知っていれば、例えば宮崎勤による連続幼女殺人事件がまったく日本的なものでもなんでもないということや、オタクとは一切関係がないことが分かる。それは現代社会であれば世界中どこででも発生する事件と認識すべきものとなる。(6/12)

■「くやしい…!でも感じちゃう」問題−自由意志について
 「レイプ」が犯罪であるということ自体は、厳然たる事実だ。ただ、なんでそれが犯罪であるかについて、日本人のイメージはボンヤリしているように見える。フランスではレイプを犯罪と認識するまでに「(1)自由意志の浮上→(2)精神医学の台頭→(3)男女平等意識」の3段階を踏んだが、日本では(1)の過程をすっ飛ばして(2)を意識しているように見える。すなわち、レイプというと、即座に被害者の「心の傷」を問題とし、加害者の「心の闇」を問題化する。それ自体に問題はないし、必要な過程ではある。が、フランスで最初に問題化された「自由意志」に関しては、日本では無視される傾向にあるように見える。これを「くやしい…!でも感じちゃう」問題と名付ける。
 フランスにおいて、アンシャン・レジームからレイプは犯罪ではあったが、現在とは感覚が相当に異なっていた。大雑把に言えば、レイプは「女性の所有者」に対する侵犯だった。女性を所有している男性(父や夫)の「所有権」を侵害する犯罪であると考えられていた。女性には「自由意志」がなく、あるいは「自由意志」が薄弱であって、その侵犯は最初から問題にならない。それは「奴隷」に対する感覚と似ている。「奴隷」を傷つけることは、奴隷本人に対する犯罪ではなく、その「所有者」に対する犯罪と考えられていた。つまり大雑把に言って、女性は「人間」というよりは「モノ」の扱いだった。(もちろん前近代において「モノ」だったのは女性だけではない。奴隷や貧乏人や異教徒は、当然ながら人間扱いされなかった)
 近代に入り、レイプは自由意志の侵害だと意識されるようになる。人間は「人格性」の部分と「モノ」の部分が分離され、「人格性」が「モノ」を支配すべきだと考えられるようになる。「モノ」とは物理的な法則に従う部分のことで、具体的には「肉体」を表す。「理性が肉体を支配するべきだ」と意識され、自己の肉体を排他的に使用する権利は自己の「自由意志」に属するようになった。これがいわゆる「性の自己決定権」の根拠だ。他人に自己の肉体を支配されることは、自己の肉体に対する排他的権利を持つ「自由意志」への侵犯となる。この理屈によって、「奴隷」は理論的に否定され、「レイプ」も論理的に自由意志に対する犯罪となる。(こういう論理で考えると、「陵辱」という言葉より、「奴隷」という言葉の方が圧倒的にヤバい。イギリスのAmazonで問題になったのが『聖奴隷学園』でなくて、本当によかった。欧米人には「奴隷」という用語を見せないように注意しましょう)
 日本の性表現には、意図的にか無意識的にか、この「自由意志」を「肉体」に従属させるような描写が多い。典型的に、「くやしい…!でも感じちゃう」というセリフに凝縮されている。他に「言葉では何と言おうが体は正直だぜ」というセリフでも構わないが、「肉体」に施された操作が「自由意志」を裏切るという描写が極めて多い。そして一方、欧米の性描写にはこういった表現が極めて少ない。いいことか悪いことかは別として、性表現に限らず、日本(および東洋的な感覚)では、「自由意志」に対する配慮が欠けていることが多いように見える。『レイプレイ』にも欠けているが、それを法的に規制しようとする人々にも同じように欠けている。「肉体」に対する操作が「精神」をも支配するという「日本的(あるいは東洋的)な感覚」の露出自体が、そもそも分析に値する。
 こうした「肉体が精神を裏切る」という性描写は、男性向けメディアだけでなく、女性向けメディア(特にレディースコミック)でも支持されている。性差は言い訳にならない。「くやしい…!でも感じちゃう」問題は、日本文化を考える上でも非常に興味深い示唆を与えるはずだ。(6/13)

■レイプについて考察するための予備知識−「自由意志」について
 「自由意志」は、それこそギリシャ哲学から議論されていて、たとえばアリストテレスはかなり体系的に論じていたりするわけだけれども。決定的だったのは、カントが『実践理性批判』で打ち立てた論理だろうと思う。
一切の被創造物のなかで、我々が欲しまた意のままに処理し得る一切の物は、手段としてのみ使用され得る。ただ人間だけは、また人間と共に他のいかなる理性的被創造者も、目的自体である。まことに人間は、道徳的法則の主体である。この主体は、彼の自由による自律の故に神聖なのである。(中略)それだから理性的存在者は、決して単に手段としてのみ使用せられるものではなく、同時にそれ自身目的として使用せられねばならない、ということである。
カント『実践理性批判』岩波文庫版、181頁
 カントは「感性界」と「可想界」を厳密に区別した。カント自身の詩的な言葉で表現すれば、「私の上なる星をちりばめた空」と「私のうちなる道徳的法則」の世界となる。簡単な言葉で言い直せば、「物理法則に従うことしかできないモノ」と「自分自身で法則を立てることのできる人格」の区別となる。誰か他の存在(たとえば神)が作った物理法則に従うことしかできない「モノ」と違って、人間は「自由」に法則(自分の行動を制御する道徳的法則)を作ることができる。それが人間の尊厳の源となる。したがって、もしも人間から「自由な立法」の力が取り去られたなら、それは単なる「モノ」と成り下がる。
 レイプとは、被害者から「自由な立法」の能力を奪い、他律的な法則に従うだけの「モノ」として扱う行為となる。カント的に言えば「我々が欲しまた意のままに処理し得る」ようなものとして「単に手段としてのみ使用」することで、「人間」としての尊厳を毀損する行為となる。
 ただし補足するならば、ポルノグラフィーに関する議論などで、しばしば「女をモノ化する(あるいは商品化する)」という表現を見るが、カント的な意味から言うと誤用である場合が非常に多い。カントは「理性的存在者は"単に"手段としてのみ使用せられるものではなく、"同時に"…」と言っている。「単に」と「同時に」という言葉が重要なポイントとなる。人間は「可想界」に属すると同時に「感性界」にも属する。「モノ」として扱われている場合も、単純に人間の尊厳を奪っているとは言えない。人間を手段として使用している場合でも、「同時にそれ自身目的として使用」していれば、それは「単なるモノ」ではないからだ。逆に言えば、もしもポルノグラフィーが「女のモノ化/商品化」だとしたら、たちまち労働は「人間のモノ化/商品化」となる。(ちなみにマルクス主義を勉強している上野千鶴子になると、ブルジョワ・イデオロギーを正当化する「自由意志」という概念に対してきっちり疑念を提出している)。
 いちおう繰り返しておけば、レイプが人間を「モノ化」し、人間の尊厳を毀損する行為であることに、カント的な意味において間違いはない。
 ところで、「意図しない強制性交=レイプ」が「自由意志の侵害」だとしよう。なら、「意図しない強制勃起」は「自由意志の侵害」にはならないのだろうか。(6/20)

■レイプについて考察するための予備知識−上野千鶴子について
 陵辱ゲーム規制問題に関して、フェミニズムを目の敵にする人々が多いようだけど、ひょっとしたら彼女たちは潜在的な同志であるかもしれない。少なくとも上野千鶴子の本は読んでおいて損はない。たとえば、上野は次のように言っている。
 レイプの謎は、レイピストの謎である。この謎に答えない研究は、何百ページついやしても、まったく意味がない。それどころか男がいっこうにこの「悪い」ことをやめようとしないありさまを見て、法律の強化や治安の維持を求める人々もあらわれる。その結果は皮肉だ。「夜を女に返せ」(アメリカではレイプの危険のため、女が夜道を一人歩きすることもできない)というフェミニストの要求は、しばしば治安警察力の強化を要求する結果になる。ポルノに反対する女たちの運動は、取り締まりの強化と検閲制度の導入を招きかねない。フェミニストのポルノ反対と「表現・出版の自由」とは、心ならずも敵対関係に陥ってしまう。
 どうしてこんなディレンマに陥るのか? かんたんだ。男の性の謎を解かずに、力の論理でそれをおさえつけようとするからだ。それも自分たちの力でなく、国家と権力の力を借りて。
上野千鶴子『発情装置』筑摩書房、70頁
 残念ながらこの後に続く分析は「男の性の謎」に迫っているような気はしないけれども、問題提起は適切だと思う。
 フェミニストが潜在的な同志かもしれないというのは、フェミニズムが本来は「マイノリティの権利」についての理論だからだ。上野は、「女」をマイノリティとして定位するだけではなく、男の中でも「次男三男」というマイノリティについて言及している。家父長制においては、権力を持っているのは男全般ではなく、「長男」に限られていた。家父長制下において、次男以下は結婚もできず、タコ部屋で雑魚寝させられ、単なる労働力として数えられるだけの存在だった。つまり次男以下は家父長制においては「人格性」を認められない、単なる「モノ」に過ぎない。それにも関わらず、次男以下の「男の権利」を回復しようとしてくれる人はいなかった。上野が優れているのは、女だけでなく、次男三男もマイノリティとして視野に入っている点だ。
 そして、現代におけるマイノリティは、「非モテ」だ。非モテ(あるいはキモメン)がどれくらいマイノリティかは、本田透の呪詛でも聞けばよかろう。いちおう付言しておけば、この場合の「マイノリティ」とは数の多少が問題になっているわけではない。現代社会における「一夫一婦制」とそれを基礎とした「資本主義」システムにおいて、「非モテ」が必然的に権力から周辺化される事態を指して「マイノリティ」と呼ぶ。(本田透はこのような事態を「恋愛資本主義」と呼んでいるが、認識は偏っているように見える。おそらく要点は、高度経済成長後の家族構成の変化にある。「核家族化」による長男の位置の地殻変動は視野に入れないとお話にならないように思う)。
 マイノリティであると自覚する女性が、自らの復権のために声を上げること自体は、よかろう。しかしおそらく現在、その声は権力者の方ではなく、男の中でもマイノリティのほうに向けられている。弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響き渡れば、ブルースは加速してゆく。本来なら、フェミニストの呪詛は、幸せな一夫一婦制の家庭を築いている人々に向けられなくてはならない。幸せな一夫一婦制の形態こそが、女性をマイノリティにおいやっている最大の要因のはずだ。そしてもしも一夫一婦制の下で何の不自由もなく幸せな家庭を築いている体制側の人間が「陵辱ゲーム愛好者」を叩いているとしたら、なんとグロテスクな「強者の傲慢」だろうか。こういった「強者の傲慢」が優生学を招き寄せ、「非モテ」たちはますます去勢されていくのだろう。(6/21)

■レイプについて考察するための予備知識−イギリスのレイプについて
 本棚の奥から引っ張り出した精神分析系雑誌『imago』の1993年4月号−特集「レイプ」を読んでいたら、イギリスのレイプについての叙述が出てきた。後に『世界犯罪史』として訳出された本の第7章にあたるようだ。
 それによると、イギリスでもレイプが犯罪として認知され始めたのは19世紀前半らしい。ビクトリア朝の影響を主張する著者の分析はいい加減なように思うが、個々の犯罪事例自体は『ニューゲート監獄暦報』から報告されているので信頼に足るだろうと思う。19世紀前半にレイプが犯罪として認知されるというタイミングはフランスでの変化と機を一にしているので、この傾向は近代性の問題として一般化してもよさそうだ。
 ところで、精神分析系のレイプ分析は、クソの役にも立たなさそうだ。特にユング派の精神分析は、ゴミだ。(6/22)

■レイプについて考察するための予備知識−地下鉄御堂筋事件
 1988年11月、大阪市営地下鉄御堂筋線で、強姦事件が起こる。(ちなみに、御堂筋線の事件というと、甲南大生による2008年の痴漢冤罪事件が印象に残っているが、それとは別)
 1988年11月、御堂筋線の電車内で、痴漢行為をしている二人組の男性を、ある女性が注意した。しかし二人組はその女性を二時間に渡って無理矢理連れ回し、終着駅で下ろし、建築現場で強姦した。という事件だ。(いまのところ、『レイプレイ』に関して、88年の地下鉄御堂筋強姦事件を引き合いに出している規制推進派は見たことがないけれど、その程度の知識なのだろうか)
 御堂筋事件が『レイプレイ』と似ているのが偶然なのかモデルになっているのかは分からないけれど、とにかく気持ち悪いし、悲しいし、底知れぬ怒りが湧いてくる事件だ。ぼくがこの事件の裁判員になったら、法律的に許される最大限の罰を与えるよう主張するだろう。きっと『レイプレイ』に怒っている人も、同じように怒っているのだろう。
 その怒りを回避して「ゾーニング」の議論に終始しようとしている人々が、だんだん薄っぺらく見えるようになってきた。思想・表現の自由は確かに大切ではあるが、この人として当然の怒りを呑み込まずに形式論理に終始しているだけだと、説得力は生じないように思う。

 佐藤亜紀日記6.22は、なかなか興味深い。「陵辱ゲーム愛好者」が非難されている以上に、おそらく「喫煙者」への風当たりは強い。「陵辱ゲーム愛好者」は、実は面と向かって非難されることはあまりないし、日常的に悪意を向けられるわけではない。一方、「喫煙者」への弾圧はもはや日常的になっているし、法的規制も着々と進行している。そして非喫煙者は、誰も喫煙者に対して同情しない。喫煙者が弾圧されることを、当たり前と思っている。もちろん、ぼくもタバコなんて吸わない。百害あって一利なしと思っているから。
 だから、6.23の記述は、「タバコ」を「陵辱ゲーム」に置き換えて語ってみたわけなんでしょう、いや、分かりやすい。あなたの喫煙権を全力で守るから、代わりに陵辱エロゲプレイ権も守って欲しい、と言ってみたいところ。しかし逆に「喫煙権の制限くらい甘受するから陵辱エロゲも規制すべき」と言われたら、もはやミもフタもない。(6/23)

■レイプについて考察するための予備知識−日本の伝統的性風俗(1)
 現在の日本における公的な性倫理は、近代的な人間観を基礎に置いている。性倫理の近代的思考枠組みについては、特に「子ども」の位置づけに着目して書いた「子どもとセックスと法」をご参照いただければと思う。
 しかし現実の日本の性倫理は、近代化されていないのではないかという疑いがある。援助交際にせよ、教師の猥褻行為にせよ、陵辱エロゲにせよ、前近代的な性規範がそのまま生き残っているかのような様相を示している。前近代の性規範が良いことか悪いことかは別として、日本の性風俗の事実がどうであったか、把握しておく必要はある。庶民の性風俗に関して参考になるのは民俗学だが、中でも赤松啓介は押さえておかないと話にならない。赤松は著書の中で様々な記録を書き残している。
昭和26年、瀬戸内海の坊勢島に赴任した駐在所の巡査の報告書というのがある。その巡査は、女房を連れて赴任したわけだが、赴任した夜に夜這いに見舞われることになる。どないやあ、遊ぼうか。と若衆が娘のところにやってきて、巡査に怒鳴り返されている。当時の漁村では、夏になると女は乳房丸出しで、下の腰巻きも半分開いているようなありさまで、家柄の良い家の女房でも見られたものでなかった。いくらでも軽犯罪や強姦罪で引っ張ることができると巡査は嘆いているのである。
赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』ちくま学芸文庫版、37頁
 近代的な性規範を持っている巡査に対し、漁村の人々は前近代的な性規範を持っている。巡査からすれば「強姦」に見える行為でも、漁村の人々としては当たり前の行為に過ぎず、罪悪感は微塵もない。そして重要なことは、権力を持っているのは巡査のほうであって、巡査が本気になれば、前近代の人々は悪いことをしたつもりがなくても簡単に逮捕されてしまう、ということだ。
 赤松は、他にも清水寺周辺で行われる乱交について述べ、周辺では「娘かつぎ」という強姦・輪姦行為が行われていたことを報告している。近代的な感覚から言えば当然悪いことに決まっているのに、前近代においてはそもそもそれが悪という意識がまったくない(同159頁)。良いことか悪いことかは別に考える必要があるが、事実として、性規範の近代化の影響について考える必要はあるだろう。(6/25)

■レイプについて考察するための予備知識−日本の伝統的性風俗(2)
 赤松啓介の話の続き。赤松が採取した民俗資料は大正時代から昭和初期にかけてのもので、前近代から近代へと移行する過渡期の形態が興味深い。前近代の価値観と近代の価値観が衝突する最前線の姿を垣間見ることができる。
 たとえば、大正時代になってもムラの中下層には「夜這い」という前近代的な風俗が残るが、上層の地主たちは娘を都会の女学校に送り出すようになっている。地主には、娘を夜這い習俗から隔離し、貞操を守らせて「処女を高く売る」という算段がある。娘のほうは、女学校で教育勅語体制の良妻賢母主義教育を受け、近代的な貞操観念を身につける。しかし赤松によれば、そういう近代的価値観を身につけた娘たちが、前近代的なムラの若衆に狙われて強姦される。
ところが夏休み、春休みなどに(地主の娘が)帰郷、親類の吉凶などで外出。女中連れでヒルヒナカと安心しているとムラの若衆たちに襲われて女中もろとも輪姦。親たちが強姦で告発といっても、それは恥の上塗りだと親類やムラの顔役たちが説得、たいていウヤムヤになる。平素、権高で娘の処女を高く売りたい連中ほどやられている。
赤松啓介vs上野千鶴子『猥談−近代日本の下半身』現代書館、80頁
 どこまで信用していいか分からない話ではあるが、階層格差と価値観の衝突という点において興味深い。ムラを捨てる形で生じた近代的価値観は、結局はムラの論理(前近代の共同体規制)によって呑み込まれてしまう。赤松はさらにこう述べている。
上層の娘や嫁どもの貞操が厳守されたかというと、なかにははなはだいかがわしいのもあった。(中略)娘や女たちを数人が協同してカツギ、輪姦というものも多発した。オヤジは強姦で告発するというが、いつのまにか立ち消え、キズモノになった娘や女は格下げして結婚した。夫人やオイエさんたちをねらうのは、他出して夜遅く帰るのを狙って強姦した。これもほとんど和姦みたいなもので、立ち消えてしまう。女たちの会合では、うちもやられた。会長さんもやられたんか、と川の長い土堤を夜、帰っていって強姦されている。(186頁)
 近代的な価値観からは、とうていありえない話だ。
 また、「共同体規制」というものの影響についても考えさせられる。赤松は「女中」や「子守」という形で共同体の外部から働きに来ている女性に対する強姦について、「十歳ぐらいの子守が強姦されて負傷、その治療費をどこが払うか。つまりムラの若衆仲間か、ムラ(地下の協議機関)が払うかでもめた」(132頁)事例について述べ、ムラの権力外に置かれた女性がムラ内の女性とは別の扱いを受ける状態を報告している。他、たとえば共同体の規制と保護がない工場のような場所では、女工が10歳くらいで輪姦されると言っている(161頁)。前近代の性規範を考える場合、「共同体規制」と「階層格差」について念頭に置いておかないと、的を外してしまう。
 共同体規制が働く場所では、近代的価値観からは強姦に見える事例も、共同体の論理で問題なく吸収してしまう。前近代的共同体規制が無効化する場面において、初めて強姦が強姦として表面化する。逆に言えば、共同体規制が敷かれている前近代的なムラにおいて強姦が強姦でなかったように、「陵辱ゲーム」の内部において前近代的な共同体規制が敷かれているとき、強姦は強姦として現出しない。そこには、目の前の事実を強姦として認識する枠組み自体が存在しない。(6/26)

■レイプについて考察するための予備知識−御成敗式目
 日本において、強姦は犯罪としてどのように扱われていたのか。1232年に制定された御成敗式目の第34条には、こう書いてある(原文は漢文)。
他人の妻を密懐する罪科の事
右、強姦、和姦を論ぜず、人の妻を懐抱するの輩、所領半分を召され出仕を罷めらるべし。所帯なくば遠流に処すべし。女の所領同じく之を召さるべし。所領なくば又之を配流せらるべき也。
次に、道路の辻に女を捕う事、御家人に於ては百箇日の間出仕を止むべし。郎従以下に至りては、大将家の御時の例に任せ、片方の鬢髪を剃除すべき也。但し、法師の罪科に於ては、其の時に当たりて斟酌せらるべし。
 「道路の辻に女を捕う事」が強姦に当たるだろう。百日の出仕禁止はともかく、髪の毛の半分を剃るというのがどの程度の刑罰なのか、いまいち分からない。
 ところで、「女を捕う事」は、より正確には「強姦」と言うよりは「拉致」と言うべきかもしれない。フランスの強姦の歴史を研究した『強姦の歴史』に書かれているところでは、フランス革命以前では「強姦」が犯罪として認知されず、「拉致」に至って初めて犯罪と認知されていた。それは「強姦」が強姦被害者に対する犯罪ではなく、父や夫の所有物であった「財産としての女」を盗む行為であり、男性に対する犯罪であったことを意味する。この事情は御成敗式目でも同じように見える。第34条では、まず「人の妻を懐抱する」ことが犯罪とされているが、これは女を男の所有物と見なしていることを意味するだろう。他人の私有財産である「妻」を盗んだことが問題になっているだけで、女に対する犯罪として34条が設定されているわけではない。とすれば、「女を捕う事」も女に対する犯罪ではなく、女の所有者の財産権に対する侵犯を意味していると捉えるべきだろう。したがって、「強姦」と言うよりは「拉致」と言った方がよさそうだ。
 女を所有物として構成する御成敗式目の精神は、明治の「姦通罪」まで一貫しているように見える。その一貫性は、おそらく「家制度」の一貫性と関係している。強姦が女性個人に対する犯罪として認識されるのは、家制度が廃止されて性が個人化する1947年以降のことだろう。
 ところで、鎌倉以後の強姦は家制度フレームで理解できそうだが、いろいろ手近なものを調べた限りでは、平安時代以前に日本で強姦が問題化している様子はない。探せば『古事記』に描かれた様々な結婚形態から強姦らしきものを抽出できるが、ギリシア神話のゼウス神のようなムチャクチャな強姦三昧はない。
 強姦が問題化されない理由の一つは、おそらく、強姦を強姦として認識するフレーム自体が存在しなかったことだろう。そもそも男が奴隷となることが当たり前の世界では、強姦が問題化されないのは当然のように思える。
 もう一つの理由として、婚姻形態が単婚(一夫多妻制や一夫一婦制)ではなく対偶婚(多夫多婦制)だったことが挙げられるかもしれない。高群逸枝の世界では、男女平等故に、強姦が成立しない可能性がある。
 とりあえず、そもそも強姦が強姦として認識されるためには非常に多くの前提が必要になってくることは確かで、特に「家族制度」のあり方は認識のフレームを固定する際の決定的な要因のように思える。同じように、おそらく「ポルノグラフィー」の位置も、「家族制度」のあり方によって規定されている。(6/27)

■レイプについて考察するための予備知識−男からの発言
 『レイプ・男からの発言』(ちくま文庫)について。20年前の本なので少々古いけれども、類書がない以上、レイプについて考えようと思ったら、必読だと思う。
 レイプ被害者の証言や女性の立場からの発言はたくさんあるけれども、レイプについての男の側からの発言は、ほとんどない。事例毎のコメントはともかく、一般的な観点からの発言は滅多に見ない。この本は、そういった稀な発言をインタビューという形で収集しているだけでも意味があるように思う。インタビューの対象はアメリカ人だが、現代日本の感覚と大差ないように見える(レイプに対する「感じ方」が男性にとって普遍的なのか、あるいは単に日本がアメリカナイズドされているだけなのかは分からない)。
 ともかく、レイプに対する男の側からの「感じ方」のバリエーションが、男のセクシュアリティとは何かを考える上で、いろいろなヒントを与えてくれる。
 その一方で、個々の発言に対する解釈を施しているフェミニストの薄っぺらさが悲しい。男のセクシュアリティに迫る素振りすらなく、単なる指弾に終始している。教条主義とはこういうものかということを、まざまざと見せつけてくれる。筆者による巻頭の「序論」にも言えることではあるが、あまりの「キレイゴト」は、<物語>としてはありえるかもしれないが、そこから説得力は生じない。キレイゴトの論理よりも、個々の男たちの泥臭い発言の方が圧倒的に迫力を持っている。軸足をここに置けないものだろうか。
 そういえばこの本の編集者が藤本由香里。なぜか去年京都でお話をする機会があって、メガネ関係ではおもしろい話をたくさん聞いたけど、さすがにこの本の話はしなかった。機会があったら、またいろいろ聞いてみたいところ。(7/2)

■レイプについて考察するための予備知識−踏みにじられた意思
 『レイプ・踏みにじられた意思』について。S・ブラウンミラー著。フェミニズムによるレイプ告発本の古典。レイプとポルノグラフィーの関係についての古典的フェミニズム仮説を把握する上では、おそらく必読文献。仮説に興味ない人にとっても、豊富な古今東西レイプ実例は心を揺さぶるのではないだろうか。ジャーナリストらしく理論的にまとまりがない雑多な事実の羅列に終わっている感もあるが、特にベトナム戦争を中心とした戦時レイプと刑務所内での男による男へのレイプ記述は、胸焼けがするくらい迫力がある。
 主張の理論的な要点は2点。一つは、レイプの犯罪構成要件を「男性の所有権侵害」から「女性の身体への侵害」へと転換すべきという主張。もう一つは、レイプ・イデオロギーへの抗議。一点目は21世紀に入る段階では概ね認められてきているように思うが、二点目の論点は『レイプレイ』問題に直結する。レイプそのものの犯罪性というよりも、「レイプ表現」による抑圧が問題となり、ポルノグラフィー全般の問題へと展開する。明らかにある特定の集団を貶めている表現に、表現の自由はあるのか?
 ネット上では「表現の自由至上主義」とでも呼べるような粗雑な論議が多く見られるが、それは形式的には140年前には論破されている。「自由の実質的な実現」のために「自由の制限」をすべきことは、現代法(労働法など)でも認められているところだ。古典近代的法哲学理論ならともかく、現代法の常識において「自由」は絶対ではない。
 だから議論されるべきなのは形式的な「表現の自由」ではなく実質的な「レイプ・イデオロギー」理論の正当性なわけだが、レイプ表現そのものについて批判的に語る人々が絶望的に少ない現状においては、早晩に包括的な法規制が実現するだろうと悲観的になってしまう。とはいえ、規制推進側の言い分も絶望的にウンコなので、すぐに法規制が通ることもないだろうと楽観的でもある。著者のブラウンミラーも、こう言って悲観している。
問題の一部は、従来ポルノにもっとも強く反対してきたのが、多くの場合、性に関する話題を耳にしただけで身震いしてしまうような人だったことにある。(中略)戦線が誤った形で引かれてしまったため、ポルノ反対運動の大部分は宗教色の強い南部の保守派や右派が担っており、東部の無神論者やリベラル派の間ではポルノ肯定の動きが強い。(322頁)
 宗教がかったオバサンたちがポルノ撲滅運動をリードしている間は、その問題意識にリベラルが乗ることはあり得ないので、オバサンを利用する保守による女権縮小はあっても、女権拡大はあり得ない。進行中の「児ポ法」改正なりエロゲ弾圧なりが、リベラルを敵に回す形で展開している以上、法規制されようがされまいが、女性全般にとっては最終的に不幸なことになるだろう。(7/11)

■レイプについての考察−レイプ・イデオロギー
 「レイプ行動」ではなく、「レイプ表現」に対する告発に関する整理。【レイプ表現の自由が、具体的に女性の自由を侵害する】という主張が、フェミニズムによる告発の核であるということについて。
 「自由」は可能な限り尊重されなければならないが、その「自由」が他者の「自由」を侵害する時は規制される場合がある。この「自由主義」における形式的な論理は、ホッブズからロックの自然権思想においても、ベンサムやミルの功利主義においても、カントやヘーゲルの観念論的法哲学でも認められているところであり、当然ながら現代法でも確認されている。「自由」は、他者の「自由」の前では、絶対ではない。リベラルの枠組において何らかの「自由」を制限しようとする場合、「他者の自由の侵害」を持ち出す以外の論理はあり得ない。だから、フェミニズムが「レイプ表現の自由」を制限しようとする場合、「レイプ表現の自由が、具体的に女性の自由を侵害する」という形での告発しかできないし、ベイネケもブラウンミラーも実際にそう主張している。(そうしていない場合は、馬鹿や宗教家など、自由主義以外の立場なので、論外。しかし、この程度は常識だと思っていたので、リベラルを自認する人が「表現の自由とは別の問題で、思想の自由の問題でもない」と看破したのは当然としても、「女性の自由に対する侵害」を視野に入れていないのは少々意外だった。またたとえば、佐藤亜紀の言う「蹂躙からの自由」だけでは、具体的な蹂躙行動を伴わない「表現の自由」を制限する論拠としては薄弱だ。「レイプ表現」が「現実の性犯罪と同一の掟」という回路を経て具体的な日常の自由を侵害していることを明らかにするに至って、「表現の自由」を制限する論拠となり得る)
 「レイプ表現」が「女性の自由」を侵害すると主張されるのは、「男性なら可能な自由」が女性から剥奪されているからだ。男性なら行ける場所(夜道の一人歩き、ヒッチハイク、ニューヨークの地下鉄など)に女性は行くことができないし、男性がしてもよいこと(家の外に洗濯物を干す、郵便受けに本名を書くなど)ができない。そして、このような具体的な「自由への侵害」が発生するのは「レイプされるのは女性」という厳然たる「事実」が存在しているせいだが、もう一段階重要な問題がある。もしも実際にレイプされた女性が、夜道を一人で歩いていたり、家の外に洗濯物を干していた場合、「レイプされた被害者の女性が非難される」という厳然たる事実が存在することだ。
 たとえば男性が夜道を一人で歩いていたり家の外に洗濯物を干していて、そしてレイプされたとしても、そのレイプ被害者の男性に対して「夜道を一人で出歩くなんて、隙を見せる方が悪い」などという非難は加えられないだろう。男だったら、ズボンをずりさげてパンツを見せるファッションをしても、「そんな尻を出しているファッションではレイプしてくれと言っているようなものだ」などとは言われない。しかしレイプ被害者が女性だった場合、ズボンをずりさげてパンツを見せるファッションだったら、どうか。当然、「誘惑した女性のほうが悪かったんじゃないか」と疑いの目が向けられる。女性がレイプされたときに非難されない「純粋な被害者」であるためには、「男性には許される様々な自由」を断念しなければならない。
 京都教育大学のレイプ事件において、被害者の女性を中傷する発言があった。これが問題なのは、被害者の女学生に対する影響に留まらず、女性全体への「脅迫」となっているところだ。被害者の女性を中傷することにより、「男性なら飲み会に行って泥酔する自由はあるが、女性にはコンパで泥酔する自由はない」とか「男性なら女性を誘惑するような服を着る自由があるが、女性が男性を誘惑するような服を着ていたらレイプされても文句を言うな=女性にはファッションの自由はない」というふうに、具体的に「女性の自由」を侵害するメッセージを発していることが問題となる。被害者に対する中傷は、「男性には許されるが、女性には許されない自由」という領域を設定し、脅迫することによって、具体的に女性の自由を侵害しているわけだ。
 「レイプ表現」の問題も、同じ所にある。「男性には許されるが、女性には許されない自由」という領域を構成し、具体的に「行動」を制御すること。これが「レイプ・イデオロギー」と呼ばれるものの中身となる。このように具体的な「自由の侵害」が発生しているとしたら、リベラルの立場であったとしても、「レイプ表現の自由」に対する制限を訴えなければならない。「自由」は、「他者の自由」を侵害する場合は、絶対ではないから。果たして「レイプ表現の自由」は、具体的な「女性の自由」を侵害してでも守られるべきなのか? それとも「女性の自由に対する具体的な侵害」など発生していないのか? 形式的に「表現の自由」を主張しているだけのリベラル初心者の面々は、この疑問の前では、無力だ。
 宗教家などリベラル以前の連中に対しては「表現の自由」一点張りの近代的啓蒙主義丸出しでもよいだろう。が、「レイプ・イデオロギー」の議論なしで済ますのは、長い目で見た場合、確実に損害となるように思う。なぜなら、いま男性たちも「イケメンには許されるが、キモメンには許されない自由」という差別的な領域が存在していることを発見しつつある最中なのだから。(7/12)

■レイプについての考察−レイプ文明史仮説
 ホッブズの社会契約論は、国家権力の起源をこう説明している。「万人の万人に対する闘争」を回避するために、各人は自らの「自然権」を「主権者=国家」に委譲し、各人が絶対的に国家権力に服従する。
 ホッブズは本来の人間=自然人を「平等」と仮定し、リヴァイアサンを召喚しない限りは「万人の万人に対する闘争」には決着が付かないと言う。本当だろうか? もしも国家権力が存在せず、「万人の万人に対する闘争」が発生していた場合、男が女を襲わないことがあるのだろうか? 戦時レイプや非常時レイプの存在を考えた場合、無政府状態=自然状態においてレイプが多発するだろうことは容易に想像がつく。『北斗の拳』の世界にレイプが存在しないことなど、あり得ない。それにも関わらず、ホッブズは「万人の万人に対する闘争」においてレイプの可能性を考慮しない。
 その理由は、おそらくホッブズの言う「万人」の中に、そもそも女性(そして子ども)が含まれていないところにあるだろう。「万人」の中の「人」とは、家族を率いる家父長、すなわち男性を指している。家父長は、家族の私有財産を守ると同時に、「資産としての女」を守るために、「万人の万人に対する闘争」に突入する。「女」は資産として守られる存在であり、「万人の万人に対する闘争」における主体ではない。
 さて、いま、女性が家父長制の鎖から解き放たれたとしよう。これで女も「万人の万人に対する闘争」における「主体」となる。しかし、女には常にレイプの危険が伴う。なぜなら、「万人の万人に対する闘争」の状態においては、物理的暴力に勝る男性が、一人の女性を圧倒してしまうのは容易だからだ。ユリアはシンに拉致されてしまうのだ。「万人の万人に対する闘争」の状態では、ある男性がある女性をレイプしていたとしても、誰も助けてやる理由がない。なぜなら、「万人の万人に対する闘争」の世界では、レイプされるほうが悪いのだ。弱い女性は、無政府状態ではレイプされ放題だ。
 このときに女性がレイプを回避する一つの方法は、ある特定の男性の庇護下に入ることだ。レイプされたくなかったら、強い男に守ってもらえばいい(ケンシロウはユリアを守れなかったが)。だがこれは、容易に家父長制を招き寄せる。家父長制とは、「万人の万人に対する闘争」の状態において、女性がレイプされないための合理的な制度ということになる。ホッブズの社会契約説は、家父長制によりレイプがなくなったところから話が始まる。
 女性がレイプを回避するもう一つの方法は、無法レイプを許す前提である「万人の万人に対する闘争」自体を解消することだ。男性も女性も全ての人間が「自然権」を絶対的な「主権者」に委譲し、各人が絶対的に国家権力に服従することで、女性は国家権力から「自然権」を守ってもらえることになる。
 (ちなみにもう一つ、女性が物理的に強くなるという道もあるが…)

 この論理構成は、ロックの社会契約説でも可能だろう(ルソーの社会契約説になると、別のストーリーになりそうだが)。
 社会契約説自体は歴史的には実証できないフィクションだ。しかし女性が「人間の権利=たとえば表現の自由」を放棄してでも「性表現」に「法的規制」を加えようとする傾向があるのは、現代の無秩序な「万人(男性)の万人(女性と子ども)に対するレイプ」を取り締まるリヴァイアサンを召喚しようとしているからではないか。そう見れば、社会契約説も理論として捉え返す意義がある。現代とは、「個人」が析出されて、女性と子どもを保護するはずの家父長制が説得力を失ったことにより、実は「万人の万人に対する闘争」を論理的に遡るような、さらなる「自然状態」が剥き出しに現象した時代なのかもしれない。「児ポ法」や「陵辱ゲーム規制」は、現代に出現した「ネオ自然状態」を食いつぶそうとする、リヴァイアサンの意志なのかもしれない。

 レイプについての社会思想史的な考察が必要だと10年くらい前から考えていたのは、これが「文明史」を根底から書き直し、子どもに関する現代の様々な動きを記述する重大な鍵になるように見えたからだ。『レイプレイ』問題は発言のきっかけではあるが、レイプに関する資料自体はだいぶ前から収集している所以。
 まずは、社会契約説に「レイプ」という要素を入れることで、見える風景がだいぶ変わるように思う。もっとも重要な観点は、「私有財産とレイプ」の関係になるだろう。果たして人は自然状態でレイプをするのか? 「私有財産制のない世界にレイプはあるのか?」という問いでもよい。(7/14)

■レイプについての考察−社会契約論とレイプ(1)
 ホッブズ『リヴァイアサン』では、「人間の自然状態」における「万人の万人に対する闘争」が考察されながら、そこに男の女に対する闘争(すなわちレイプ)が顧慮されている様子がない。ホッブズの言う「自然状態」では、既に女が男に従属しているのだ。闘争の主体である男性は、妻と子どもを持っていることが前提されている。たとえばホッブズは「自然状態」において万人が闘争に入る理由を「人間の本性のなかに、三つの主要な、あらそいの原因を見いだす。第一は競争、第二は不信、第三は誇りである」としたうえで、「第一は自分たちを他の人びとの人格、妻子、家畜の支配者とするために、暴力を使用」すると指摘している(第1巻210頁)。すなわち、人は「自然状態」において自分自身の人格の他に「妻子と家畜」を保有していることが前提となっている。これは家族と呼べる状態である。他でも、ホッブズは「完全に文明化していない諸国民においては、いくつかの大家族が、たえず敵対して生活していて、私的な強力をもって互いに侵略しあっていた」と指摘し、それは「コモン-ウェルスをもたない」ことだと言う(第2巻123頁)。また、「一大家族は、それがもしあるコモン-ウェルスの部分でないとすれば、主権の諸権利に関してはそれ自身が一小君主国」(第2巻77頁)と言ったり、「父および主人は、コモン-ウェルスの設立以前には、かれら自身の家族における絶対的主権者であった」(第2巻120頁)と言ったりして、リヴァイアサン召喚以前の自然状態が家父長という絶対的主権者同士による闘争であったことを言明している。また、「情念」を分析する章において「泣くこと」を記述している箇所では、「もっともそれにおちいりやすいのは、女性や子どものように主として外部の援助に依存する人びとである」(第1巻108頁)と言い、女性及び子どもが主体性を持たないことを前提としている。
 だからホッブズの主張は、正確には「万人の万人に対する闘争」と呼ばれるべきではない。正しくは、「全家族集団の全家族集団に対する闘争」と表現されなければならない。
 ちなみに『リヴァイアサン』では、僅かながら男女関係についての言及が見られる。例えば第27章「犯罪、免罪、および軽減について」では、「力による貞操蹂躙は、へつらいによるよりもおおきい。そして、結婚している女性に対するものは、結婚していない女性に対するよりもそうである」(第2巻222頁)と言っている。ホッブズにおいても強姦は「犯罪」であって、その根拠は「人びとの一般的な意見」である。興味深いのは、処女を強姦するよりも、人妻を強姦する方が罪が重い、と見ているところだろう。それは、強姦が女性自身に対する犯罪というよりも、女を所有する男性に対する犯罪と考えているからに他ならない。たとえばホッブズは次のようにも言っている。
所有権によって保持されるもののうちで、人びとにとってもっとも大切なものは、かれ自身の生命と手足であり、そのつぎには(たいていの人びとにおいて)夫婦の愛情に関するものであり、それらのあとに、かれらの財産と生活手段である。したがって、人民は、私的復讐によるおたがいの身柄への暴行、夫婦の貞操の蹂躙、および、おたがいの財貨の力ずくの掠奪や詐欺による横領を、さしひかえるようにおしえられるべきである。
第2巻267-268頁。「第30章 主権的代表の職務について」
 ホッブズはこの箇所で「主権的代表」が一般人民に対して教育を行うべき様々な事柄を挙げていて、そこで「貞操の蹂躙」を行わないようにすべきと主張しているのだが、それは「所有権」の文脈で語られる事態なのだ。家族集団の内部では、既に男が女を制圧しているのだから、そこでのあらゆる性行為はレイプではない。別の家族集団に属する女をレイプした場合、それは女性本人に対する蹂躙ではなく、家族の所有権に対する侵害となる。
 ただし、以上のこと全てと矛盾するような一文がある。具体的には「男女のあいだには、権利が戦争なしに決定されうるほどの、強さや慎慮のちがいが、かならずしもつねにありはしない」(第2巻72頁)と言っているのだが、『リヴァイアサン』全体の文脈の中でこの文章を整合的に理解することは不可能であり、たいへん不可解だ。
 ところで、社会契約論は事実に基づかない思考実験に過ぎない。しかし、「自由と権力」に関するその思考実験は、リベラリズムの起源として現代においても「フィクションとしての威力」を持っている。もしも社会契約論が「自然状態におけるレイプ」を理論以前の出来事として視野の外に置いているのなら、「近代法理論というフィクション」の枠内でレイプを解釈することは不可能ではないのか。逆に言えば、「レイプ」という論点は、近代法理論の前提を崩してしまう楔となり得る。それは「労働力」という論点が近代法理論の前提を崩した出来事と、ひょっとしたら似ているかもしれない。「児ポ法」を理解する上では、「子ども」という論点が近代法理論の限界を超える地平を示していることを把握する必要があるのだが、「陵辱ゲーム規制」も、近代法理論の限界を超える論点に踏み込んでいる可能性が高い。近代的リベラリズム(たとえば表現の自由)一辺倒では手に負えない所以である。(7/18)

■レイプについての考察−社会契約論とレイプ(2)
 ロック『市民政府論』について。ホッブズが「自然状態」を戦争状態と規定したのに対し、ロックは平和な状態を設定する。ロックは「労働」による生産という論点を強調することにより、「自然状態」を平和なものとして構想し、ホッブズとは別のストーリーを描いた。
 ただし、ロックにおける「自然人」も、既に家族を構成していることには注意しなければならない。ロックが社会契約論によって強調したかったのは、「父の子に対する、主人の僕婢に対する、夫の妻に対する、そうして支配者の奴隷に対する権力」が自然状態のものであり、それに対して「臣民に対する為政者の権力」が人為的なものであるという点だ(岩波文庫版8頁)。ロックの目的は為政者に対する人民の抵抗権を論理的に示すことであり、「夫の妻に対する権力」は、比較対象として言及される。ロックは「最初の社会は、夫と妻の間にあり、そこから両親と子供との間の社会関係が生れた。時が経つにつれて、さらに主人と僕との間のそれが加えられるようになった。これらすべてのものが合して一家族をなし」(81頁)と述べ、これが「まだ政治社会にはなっていなかった」段階の「自然状態」とする。そして家族の成立について、「夫婦の社会は、男と女の間の任意の契約によって作られる。そうしてそれはその主たる目的である生殖に必要な相互の肉体に与ることと、肉体への権利とから成るのである」(81頁)とする。注目されるのは、夫婦間の権利関係について言及しているところだ。
けれども夫と妻とは、ただ一つの共通の関心をもっているとはいえ、その理解力も違っているので、時にはまた違った意志をもつのも已むを得まい。ところで最後の決定権すなわち支配権というものはどこかに置かれていなければならないので、自然それは、より有能で、より強い、男の手に置かれるのである。しかしながら、これは彼らに共通の利害関係のある事物と財産とに及ぶだけである。契約上彼女特有の権利となっているものは、完全かつ自由な妻の財産であり、彼女が夫の生命について権利をもっていないのと同じように、彼も彼女の生命については権利をもたない。夫の権力は、絶対君主のそれとは著しく違っており、妻は、多くの場合、自然権または彼らの契約が許す限り、彼と別れる権利をもっている。(84-85頁)
 ホッブズの場合は絶対的な家父長の権力がそのまま国家権力の源泉となることを考えれば、家父長の権利を相対化するロックの理論はよりリベラルなものに見える。とはいえ、このロックの論理が「所有権」の思想の上に立っていることを考え合わせれば、ロックの言う「妻の財産」とは貴族の女性が相続した遺産を指しているに過ぎない。ルイ7世はエレアノール・ダキテーヌと離婚して所領を失い、エレアノールと再婚したヘンリー2世がその所領を獲得する。「妻の財産」という言葉が意味を持つのはエレアノールのような貴族階級だけであって、大半の女性には当てはまらないことは注意した方がよいだろう。
 さて、ロックにおけるレイプの問題について。ロックにおいても、「肉体への権利」は「男と女の間の任意の契約によって作られる」から、契約が成立していない肉体への侵入であるところのレイプは「自然権」に対する違反となる。あるいは「他の者を自己の絶対権力の下におこうと試みる者は、これによって自分自身を、その者との戦争状態に置く」(23頁)ことになる。社会契約が成立した後においては、この戦争状態は法によって解決することが期待される。しかし社会契約以前の「自然状態」においては、「人間相互の間を裁判する権原をもった共通の上級者を全く地上にもたず、ただ理性に従って共同に生活している」(24頁)のだから、レイプされそうになった女性は「彼を私に対して戦争状態に入った者として取扱う、すなわち可能ならば彼を殺す、ということは私にとって合法的なのである」という態度に出る必要がある。だが、そもそもレイプされそうになった女性が「戦争状態」に入った男性を撃退することは、物理的に可能だろうか? 男女間に「共通の上級者」が存在しないような世界では、弱い女はレイプされ放題なのではないか? そもそもロック自身が男のほうが「より有能で、より強い」と言っているではないか?
 この疑問に対して、ロックは全く無頓着だ。ロックは「自然状態」において強盗が発生する可能性には言及しつつ、レイプが発生する可能性を一顧だにしていない。その理由はおそらくホッブズと同じだ。ロックの言う「自然状態」とは、既に女が特定の男(父あるいは夫)の保護下に入っている状態を意味している。その「自然状態」を論理的に遡って、そもそも何で女が男の保護下に入っているのか?と問うことはない。ロックはただ「夫婦の社会は、男と女の間の任意の契約によって作られる」と言うのみだ。「任意の契約」が成立しなかった場合の男女関係については、ロックは何も与えてくれない。
 またあるいは、男女間の「任意の契約」が、どのような理屈によって成立するのか、ロックは答えない。たとえば女性が男性に対して「肉体への権利」を与える契約を結ぶのは、「愛」という理由だけではないだろう。もしも女性が日常的にレイプへの脅威を感じていた場合、特定の男性と契約を結んで庇護下に入ることによって脅威から逃れようとする場合もあるだろう。ロックがこのような可能性を考慮しないのは、おそらくロックが生きていた時代にはその可能性が皆無だったからだ。
 サルは群れをなして行動する。集団からメスザルが単独で離脱することは非常に考えにくい。ロックにおいても、ある一人の女性が単独で家族集団から離脱することなど、とうてい「自然状態」とは思えなかったはずだ。社会契約論は、女性が集団に属しているのが「自然状態」だと前提して構築されている。だからレイプの可能性を考慮する必要がない。逆に言えば、レイプの可能性を考慮しなければならないのは、一人の女性が集団から離脱しているのが当たり前になってから、ということになる。現代の社会契約論は、集団から離脱した一人の女性がレイプから守られるにはどうしたらいいか?を考えなくてはならない。おそらく、牧歌的なロックよりも強権的なホッブズのほうが説得力を持ってしまうはずだ。(7/19)

■レイプについての考察−社会契約論とレイプ(3)
 ホッブズとロックにおける社会契約論の理論的不備に対して、ルソーが『人間不平等起原論』で的確な批判を加えている。ルソーは、「彼ら(ホッブズとロック)は幾世紀もの間の社会すなわち、人々がたがいに相接して住むべき理由がつねにあり、ある男がしばしばある男またはある女といっしょに住むべき理由があるあの時代を越えて先へ遡ることを考えてみなかったのである」(『人間不平等起原論』岩波文庫版178頁)と言う。ホッブズもロックも「家族」を前提として「自然状態」を考察したが、ルソーは「あの時代を越えて先へ遡る」ことが必要だと考えた。ルソーは「国家権力の起源」の分析に先立って、「家族の起源」の分析が必要なことを訴えたわけだ。『人間不平等起原論』は、社会契約論の論理構成にとって不可欠な「自然状態」を仮構するために、「男と女の出会い」にまで遡る。ルソーがホッブズとロックを批判した上で「家族の起源」に踏み込んだことは、社会思想史や政治思想史の教科書ではスルーされていることだが、ルソーの独創性を示す上で非常に重要な論点だと思う。
 とはいえ、残念ながら、この時点の生物学や文化人類学の達成地点では、「家族の起源」について考察することは困難を極めた(いや、現在の科学水準においても困難というか、不可能なのだが)。「家族の起源」に関するルソーの考察も、SFの域を出ない。思考実験のサンプルという程度で考えるのがよいだろう。
 ルソーの描く「自然人」の特徴は、社会(家族を含むあらゆる集団)を形成せず、単独で行動しているという点にある。「このような原始状態において、猿や狼がその同類を必要とするよりもむしろ人間のほうが他の人間を必要とする理由を想像することは不可能である」(67頁)。人間は、男も女も単独行動している。ルソーの描く自然人は、孤独だ。ルソーは「この世界で彼の知っている幸福はただ食物と異性と休息だけである」(54頁)という。食欲/性欲/睡眠欲だけが設定されている。そして男女の出会いについて、ルソーは「男性と女性とは出会がしらに機会のあり次第、欲望のおもむくままに、偶然に結合した」(60頁)と言う。そして「別れるのも同じように容易だった」(60頁)。ルソーは、自然人が「恋愛感情」を知らなかったと言い、すごいことを断言する。「彼にとっては女性であればだれでもよいのである」(77頁)。
恋愛の生理的なものだけに限られ、感情をかきたてたり困難を増したりするあの愛の選り好みを知らないほど幸福な人々は、はげしい愛欲をそうしばしば、また、つよく感じるはずもなく、従ってたがいに争うこともより稀で、それもたいして残酷でないにきまっている。(中略)従って、恋愛でさえも、他のすべての情念と同じように、恋愛をあれほどしばしば人間にとって災多いものにするあのはげしい熱狂を社会のなかではじめて獲得したのだということは動かしがたい事実である。
『人間不平等起原論』岩波文庫版78頁
 ルソーは「恋愛」の起源について語る。「恋愛感情」は「自然状態」には存在せず、「社会」が形成された後に「政治権力」などと共に発明されたものである、と言う。ルソーはさらに畳みかける。「欲望が満たされてしまうと、もはや男はそのような女を必要としないし、女もそのような男を必要としない。男は自分の行為の結果については、少しも気にかけていないし、おそらくなんの観念ももっていない」(177頁)。「家族」が形成されていないということは、こういうことだ。
 さて、現在の関心は、こういった「自然人」にレイプが存在するのか?という点にある。ルソーは明確に「レイプはなかった」と答えるだろう。ルソーは、単独行動している男と女が「出会がしら」に「偶然に結合した」と言っているが、そこに「合意」があったかどうかには言及しない。ただし「自然状態」にはあらゆる悪徳が存在しないので、男女の間には自然な営みしかあり得ない。
 ここまでルソーの言い分を認めたとしよう。
 ルソーはさらに進んで、「私有財産」の起源を考察する。ルソーは、道具の発見と住居の設立を「すなわち家族の設立とその区別とを形成し、そして一種の私有財産を導き入れた最初の革命の時代」(90頁)と説明する。「ここに夫と妻と、父親と子供とを共通の住居に結合するという新しい状況から、心情の最初の発達という結果が生まれた」(91頁)として、「土地の囲い込み」が「家族の起源」であると言う。そこからジェンダー差が生じ、恋愛と文化が発生し、そして「不平等」が発明されたという結論に導かれる。
 「私有財産」の起源については、ルソーに異議を申し立てて、別の可能性を示してみよう。ルソーは「土地の囲い込み」を起源と説明したが、ぼくは「女の囲い込み」も理論的には「私有財産」の起源になり得るように思う。
 たとえば、「女を手に入れる」「女をものにする」など、日本語でも英語でも、現代語において、女性は「財産」として表現されている。もしもルソーが言うように、原始状態で男と女が個別に単独行動をしていて、出会い頭に偶然に性交渉していたとして。男が女を保有することを思いついたとき、実は人類に「私有財産」という観念が初めて芽生えたなんてことはないのか? 女を「私有財産」として確保することを思いついたとき、それを囲い込むための「八重垣」が発明される必然性がある。
 「人類最初の私有財産が女である」という仮説を、ぼくは「レイプ文明史」と呼んでいる。私有財産の起源が女の保有にあるとすれば、実はいろいろなことが説明できてしまう。買春も、レイプも、ポルノグラフィーも、夜這いも、非モテ差別も、社会契約論も。とはいえ、絶対に証明はできないので、永遠に仮説のままなわけだが。(7/20)

■レイプについての考察−J.J.ルソー『エミール』
 ルソー『エミール』(1762年刊)は、教育に関する不朽の名著といわれている。エミールという少年が大人になり結婚するまでの育成過程とその教育方法を記述した、一般的には人為を廃した「消極教育」の書として、あるいは「子どもを発見」した書として知られている。しかしその『エミール』にレイプ史観が折り込まれていることは、あまり指摘されない。あるいは意図的に無視される。レイプに関する議論は第五編(岩波文庫版では下巻)で展開される。
 第五編は、エミールの伴侶となるべきソフィーという少女の教育について語られる。ルソーにとっては、男女の教育は完全に別の原理で行われなければならない。それは男女の性差が「自然」に基づいているからだ。ルソーは、男性は「能動的で強く」、女性は「受動的で弱くなければならない」と断言し、以下のように女性のポジションを定める。
この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。(中略)女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって力の必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心がむすびついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。
ルソー『エミール』岩波文庫版、下巻7-8頁
 抵抗することによって力の必要を感じさせること!! ルソーはご丁寧にも原注で「見せかけや挑発のための拒絶は、ほとんどすべての女性に共通のこと、動物のあいだでさえみられることで、喜んで身をまかせようとしているときにさえみられることだ。それを否定する人は女性のやりくちを観察したことが全然ないにちがいない」(下巻275頁)と付け加える。ルソーによれば、男性が女性に対して「力」を用いるのは、女性の技巧のせいなのだ。そしてそれが自然であることを、「繊細な心とほんとうの愛情をもっていれば、恋人が相手のひそかな願いを思いちがいすることになるだろうか。口ぶりは拒絶していても、心と目が許しているとき。それを知らずにいるだろうか」(下巻266頁)と正当化する。男性が女性に対して物理的な力を用いるのは、自然の摂理であって、「ほんとうの暴力」ではない。たとえばルソーは次のように説明する。
そういうわけで、女性は、男性と同じ欲望を感じていてもいなくても、また、男性の欲望を満足させてやりたいと思っていてもいなくても、かならず男性をつきのけ、拒絶するのだが、いつも同じ程度の力でそうするのではなく、したがって、いつも同じ結果に終わるわけでもない。攻めるほうが勝利を得るためには、攻められるほうがそれを許すか命令するかしなければならない。攻撃する者が力をもちいずにはいられなくするために、攻撃される者はどれほど多くのたくみな方法をもちいることだろう。あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。自然と道理はそういうことに反対している。自然は弱い者にも、その気になれば、抵抗するのに十分な力をあたえているのだ(9-10頁)
 つまりルソーによれば、達成された性交は全て和姦であり、原理的に強姦は存在しないということになる。ルソーの見解が真実を付いているかどうかは、とりあえず脇に置くとしよう。しかし、こういう内容の書物が約250年間も教育学の不朽の名著として君臨しているのは、厳然たる事実だ。仮に『エミール』の他の部分が優れていたとしても、そういう理由で免罪はされない。他の優れている部分も、レイプ文明史を前提として成立しているのだから。時間に正確なカントが『エミール』を読んでいるときだけ時間を忘れたというエピソードが伝わるほどの名著に、あまりにもオーソドックスなレイプ文明史が見られるという事実は、「近代」という時代の性質を考える上で非常に重要だ。そしてこのオーソドックスな見解は、現代においても飽きることなく繰り返し表明されている。例えば小浜逸郎『男はどこにいるのか』などは、このルソーの見解の枠内にすっぽり収まっている。そしてルソーの見解に説得力を感じる男性は、おそらく非常に多いだろうと推測する。
 現代でも250年前と同じような見解が繰り返されるのは、レイプ文明史が「自然」で「普遍」だからというよりも、近代以降は「それを自然と前提とした上で社会が構成されている」からだろう。そのテクニックを確立したのが、ホッブズ→ロック→ルソーと続く社会契約論ということになる。だからまず社会契約論の中に折り込まれたレイプ文明史を炙り出す作業から始めなければならない。次に行うべき作業は、そこで「自然」と前提された事項を批判的に確認することだ。人間に「自然状態」があるとして、果たして自然人はレイプを行うのか?(8/4)

■レイプについての考察−進化心理学説(1)
 「人間は自然状態でレイプするのか?」という問いに真っ向から取り組んでいるのが、進化生物学とか進化心理学という学問領域だ。結論から言えば、男は自然状態ではレイプをする、と進化心理学は考えている。
 レイプに関する進化心理学の理論的根拠は、ダーウィンが言うところの「雌雄選択」(あるいは「性淘汰」と翻訳)という考え方にある。まず進化論とは、「自然選択(あるいは自然淘汰)」による「適者生存」と公式化できる。それぞれの個体の中で、もっとも環境に適応したものが生き残り、その遺伝子が子孫に継承されていくことにより、その個体の性質が「種」としての性質として固定していくわけだ。
 一方、こうした「自然選択」とは別の原理として、ダーウィンは「雌雄選択」について言及している。自分の遺伝子を子孫に伝えようとする場合、単に生き残るだけでは不十分だ。遺伝子を残すためには、生存競争に勝ち残った上で、子どもを作る必要がある。つまり異性と交配する必要がある。異性と交配するために同性内で競争が発生し、その競争で勝ち残った者の遺伝子だけが後世に伝えられる。過酷な自然環境で生き残るための競争が「自然選択」を産み、一方で異性をめぐる競争が「雌雄選択」を産む。ダーウィン自身は、雌雄選択は自然環境と関わる度合いが相対的に少ないためか、自然選択よりも選別が厳しくないと考えている。
 で、要するにこの「雌雄選択」とは、乱暴にまとめてしまえば「モテる個体はたくさんの子孫を残し、モテない個体は子孫を残せない」という原則だ。アウストラロピテクス以降200万年、クロマニヨン人から数えても2万年、気が遠くなるほど長い間の進化の過程で、モテる個体が遺伝子を大量に残し、モテない個体は子孫を残せずに滅びる。そのような雌雄選択の過程を何百世代も経た我々には、かつて大いにモテた個体の遺伝子が伝わってきているわけだ。そして進化心理学は、外形的な性質だけではなく、行動パターンも遺伝すると考える。だから、現存の個体も自分の遺伝子を子孫により多く伝えるために、モテようと努力を重ねる。
 このような「モテよう」という努力が数百万年積み重ねられる過程で、男性と女性の外形や行動パターンが著しく懸隔していく。自分の遺伝子をよりたくさん残そうと思った場合、男性と女性とでは採用すべき戦略が大きく異なるからだ。女性は一生のうちに何十人も子供を産めるわけではないので、出産できた限りある自分の子どもが確実に生き延びることができるよう、優秀な男性との交配を望む。この場合の男性の「優秀さ」とは、子どもの養育に必要なコストを十分に負担できる能力のことを指す。子どもが生き残ることによって、その女性の遺伝子も生き残るからだ。要するに女性が金持ちを好むのは、女性の性淘汰において、金持ちと結婚した女性の遺伝子が生き残り、貧乏人と結婚した女性の遺伝子は絶滅したからだ。現在地球上に存在する女は、みんな「金持ち好きな女」の子孫なのだ。
 一方、男性が自分の遺伝子を後世に残そうと思ったら、どういう戦略を採用するか。男性としても一人の子どもに十分なコストをかけるという戦略もあり得るだろうが、もう一方で、何十何百何千という女と交配するという手もある。男性による種付けは、毎日でも、あるいは一晩に何人にでも可能だ。そして実際に権力者はそうした。相手の女性は誰でも良く、とにかくたくさんの女性に種を植え付けることが生き残り戦略としては一番分かりやすく手っ取り早い。地球上に存在している男は、その大半が「女とセックスしまくった男」の子孫であって、あまりセックスできなかった男の遺伝子は絶滅している。
 まとめれば、男性としては女であれば誰でもいいのでとにかくセックスしようとし、女性は子育てのコストを十分に保証できる選りすぐりの限定された男性との交配を望む。ここに男女の戦略が分離し、何百万年という時間が経つ間の雌雄選択によって、男女の性差が広がっていったわけだ。
 ここからレイプが説明できる。通常であったら、男性は女性と交配するために、自分の持つ財産を有効に活用する。金持ちだったら、複数の女性を養い、性交し、子供を作って、遺伝子を大量に残すことができる。だが、もしも不幸にも貧乏だったら。貧乏で女性が養えず、子育てのコストをまかなえなかったら。劣位の個体は遺伝子を残すことを簡単に諦めるしかないのだろうか。「いや、諦めない」と思ったとき。資源に乏しい男性が採用できる行動が、いわゆるレイプだ。というふうに、進化心理学はレイプのメカニズムを考えている。(実はこの考えには矛盾があるのだが、その矛盾は「レイプ表現」を考え合わせることで合理的に解釈し直せるので、後述)
 ……こんな程度なら、わざわざ進化論なんか持ち出さなくても思いつくだろうという陳腐な考え方に見えるわけだが、進化心理学者たちがダーウィンを持ち出してくるのには理由がある。進化心理学者たちが言うところの「社会科学者」、要するにフェミニストと呼ばれる人たちが、この考え方をまったく支持しないから、どうしても科学的権威を持ち出す必要があるのだ。進化心理学者は、いかに「社会科学者=フェミニスト」が非科学的で、神学的なドグマにまみれていて、独善的な政治主義で、要するに徹底的に間違っているのだということを、科学的に主張する必要がある。進化心理学には、厄介な敵が存在しているのだ。そして容易に想像できるとおり、フェミニストたちは進化心理学者を「科学的」にではなく「政治的」に叩きのめそうとしている。なぜなら、フェミニズムにおいては「科学的に正しい」ことより「政治的に正しい」ことのほうが重要なのだ。そしてそれは単に自然科学的に間違っているという以上のことを意味せず、宗教が悪いものではないのと同様、必ずしも「悪い」ことではない。
 だが実際、「レイプは女への憎しみから生まれる」と主張するようなトンチンカン相手には、「雌雄選択」の根本原理から懇々と説き聞かせてやる必要があるのかもしれない。だいたい進化論なんか持ち出すまでもなく、もし本当に女が憎いんだったら、70歳とか80歳の「ババァ狩り」をしていればいいはずなのに、なんでわざわざレイプなんて面倒くさいことをしなきゃいけないのか。レイプ犯が多大なコストを払ってレイプするのは、若い女とセックスしたいからに決まっている。「憎しみ」なんて意味不明なことを言っていると、いつまで経っても男性のセクシュアリティは分からないし、レイプがなくなることもない。
 とはいえ、進化心理学の主張も「仮説」の一つであることは常に念頭に置くべきだろう。ただでさえ怪しさ満点な理屈でもあるし、なんといっても物理的・生化学的な証拠に乏しく、文化人類学的あるいは比較文化的なアプローチを採らざるを得ないので、客観性の確保が非常に難しい。結局最終的な説得力は自分自身に対する「内観」に頼るしかないような理屈ではあって、歯切れが良い奴はどうしても胡散臭く見える。(8/11)

■レイプについての考察−進化心理学説(2)
 進化心理学は、雌雄選択に関する圧力がレイプ発生の究極原因と考える。遺伝子を残す上で、男性が採用する戦略の一つがレイプというわけだ。
 だがこの言い分には大きな疑問が残る。進化心理学の主張するとおり、もしも雌雄選択の結果としてレイプ遺伝子が生き残ったのだとしたら、我々の先祖のうちで「レイプしまくった個体」の遺伝子が残り、「レイプしなかった個体」の遺伝子が絶滅したということを意味する。これはにわかには信じがたい。なぜなら、一般的に考えて、レイプの結果として産まれた子どもが、十分なコストをかけて養育されるとは思えないからだ。あるいはレイプされた女性が妊娠したとして、簡単に子どもを産むと決断するとは思えないからだ。さらに現存する社会(及びかつて存在した社会)の大半ではレイプは犯罪として禁止されており、社会からの支援を受けないレイプによる遺伝子散布が効果的に機能したとは考えにくい。レイプという犯罪を犯すような個体は、自然淘汰の作用に加えて、人為的に淘汰されていくように世の中はできている。もしも進化心理学者が言うように「自然淘汰」が働いているのだとしたら、仮にレイプを誘引する遺伝子があったとしても、それは容易に淘汰されるのではないか。レイプ犯の遺伝子が、そうやすやすと後世まで生き残るとは信じにくい。
 「コストがあまりにも高すぎる犯罪としての性交=レイプ」を誘引する遺伝子が、雌雄選択によって生き残ったとは考えないほうが合理的だろう。よりあり得べき仮説として、「性交のチャンス拡大」の可能性を考えたほうが生産的なように思える。以下、仮に進化心理学が正しかったとした場合の推論を述べる。
 もし遺伝子を大量に後世に残そうとしたら、「性交のチャンスは必ずモノにする」という戦略を採用するのが正しい態度だ。的確に「据え膳」を食っていった男性は、より多くの遺伝子を残す可能性が高い。そして性交に成功しない可能性は3パターンある。
(1)第三者に妨害される。
(2)女性に拒絶される。
(3)勃起しない。
という3パターンだ。「雌雄選択」の勝者である我々の先祖たちは、この3パターンの障害を智恵と勇気で、あるいは詐欺と狡知で乗り越えて、我々に遺伝子を伝えてきている。進化論が正しいとするならば、我々にもこの3パターンの障害を乗り越えてきた遺伝子が引き継がれているはずだ。
 まず、我々の先祖は(1)第三者に妨害されても成功を遂行できるか、あるいはそもそも第三者に妨害されない状況で性交ができるような行動を採用したはずだ。おそらくセックスの最中が生活の中でもっとも無防備な状態だろうから、セックスを第三者に発見されたときには速やかに戦闘状態へ移行できるほうが、「自然選択」においては生き残りやすいだろう。「第三者にセックスを見られると恥ずかしい」という感覚は、先祖が我々に残した獲得形質なのかもしれない。
 そして(2)女性に拒絶されても性交を成し遂げるということ。これは「広義のレイプ」にあたる。普段だったら性交に応じるような女性も、体調や気分が悪かったときには性交を拒絶することがある。しかしそういうときにも性交を遂行できた男のほうが、より多くの遺伝子を残せたのかもしれない。いわゆる「デートレイプ」や「夫婦間レイプ」と呼ばれるものが20年ほど前から注目されているが、「見知らぬ相手に対して暴力を使用して性交する=狭義のレイプ」を誘引する獲得形質は容易に滅びても、こちらの「普段なら性交を許してくれるはずの相手への性的強要=広義のレイプ」に関する獲得形質は強固な可能性がある。法律や裁判を見ると、それが非常に強固であることが分かる。現代社会においても、同居状態にある夫の妻に対する性的強要は、一般的にはレイプとは判断されにくい。
 しかし遺伝子撒布にとって、もっとも厄介な問題は、実は(3)勃起しないという事態だ。どんなに性交のチャンスがあっても、勃起しなかったら遺伝子を残せない。男性はあらゆるチャンスを捉えて、的確に勃起しなければならない。どんなに醜い女性に対しても、どんなに過酷な状況においても、相手が妊娠可能な女性であれば間違いなく勃起する男性こそが、必ずやもっとも「雌雄選択」を生き延びる遺伝子を持っている。ブタのように太った醜い妻を相手にしても勃起できた男性が、我々に遺伝子を伝えてきているのだ。だから進化論が正しいとするならば、我々のアダムは、あらゆる状況であらゆる対象に勃起できた男性のはずだ。光源氏は末摘花に対しても勃起できたからこそ、永遠のヒーローである資格がある。
 そしてこの「どんな相手にどんな状況でも勃起するのが最強」ということが合意されれば、いわゆる「レイプ表現」の意味も理解できる。実は男性にとって最も勃起しにくい状況とは、命の危険に関わる「第三者に見られる」状況と、自信を喪失させる「女性に拒絶される」状況だろう。そんな最大限に過酷な状況でも勃起できるよう、あるいは勃起可能であることを確認するよう、オトコノコたちは日々の努力と学習を欠かさない(たとえば男性に見られる巨根信仰は、女性に対してというより、同性の競争相手に見られた場合の勃起保証として考えられる)。もちろん、理想状態は女性に全面的に受け入れられた「愛のあるセックス」に決まっているし、そういうセックスで男性は正常に勃起する以上、そういう遺伝子は確実に生き延びている。が、さらにそれ以上のシチュエーションでも勃起し得た男性のほうが、雌雄選択では有利に働くだろうということも推測できるわけだ。したがって雌雄選択によってレイプへの志向そのものは淘汰されたとしても、「レイプ表現」への志向は淘汰されない可能性がある。要するに男性の遺伝子撒布にとっては「女が嫌がっているときも勃起可能である」ことが重要なのであって、それは実際に「女を嫌がらせたい」こととは次元が全く異っている。積極的に「女が嫌がっていないと勃起しない」のは、女性に拒否されやすい以上、やがて雌雄選択で消えるような性質でしかない。アダルトビデオにしろエロゲにしろ、エロマンガにしろ、その表現の多くが「愛のあるセックス」であって、レイプ表現がごく一部に限られることは、よく注意されるべき事実だ。(レイプを比較的多く見るのはパロディ同人誌というジャンルなのだが、この理由は別に考える)
 女性に拒絶された状況でも勃起力を発揮できるという、この「男の体の不思議」を、女性たちは想像ができない。そもそもなんでそれを「不思議」と呼ぶのかすら理解できないだろう。「末摘花に対しても勃起できる驚異」が何故「驚異」なのかを女性が絶対に理解できないのと同じレベルで、「レイプ表現」が女性に理解されることもない。これは仕方がない。残念ながら男性が出産の驚異を経験できないように、女性も勃起の驚異を経験できない。
 進化心理学を正しいと仮定した場合の推論、ここまで。(8/12)

■レイプについての考察−進化心理学説(3)
『人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす』という本について。翻訳されたのは2006年だが、原著は2000年刊行。元のタイトルは"A Natural History of RAPE"ということで、素直に訳せば「レイプの自然史」となるはずだが、なんだかセンセーショナルなタイトルにされている。著者はおそらく"Natural History"という語に自負を持っているのだろうが、日本人には「自然史」という語の持つニュアンスが伝わらないと見た翻訳者が変更を判断したのかもしれない。
 で、人がレイプするのは、筆者によれば「雌雄選択」の結果だ。特に難しいことは書いていないわけだが、本書で非常に面白かったのは、シリアゲムシのレイプ行動の事例だ。様々な種の雄が「雌雄選択」によってレイプ行動を見せるということは、それがすぐさま人間に適用できるかどうかは別として、知識として興味深い。
 また、筆者はフェミニズムに対する攻撃に紙面を大きく割いている。フェミニズムが自然科学を完全に無視するか、あるいは誤解していることを、筆者は嘆く。おそらく、その通りだろう。まあ、そもそも自然科学の土俵で勝負していない相手にそんなことを言っても意味がないのだが。かといって、対戦相手の土俵である「政治」に乗っかると、必ず潰される。この本がアメリカでけちょんけちょんに潰されたことについては、こちらのWEB記事が興味深い→。これらを見ると進化心理学はほとんど言いがかりのような難癖をつけられているように見えるわけだが、それを許す程度には十分に脇が甘い議論をしているのも確かだ。この本にも「冗談も休み休み言え」とツッコミを入れたくなるところが何カ所もある。まあ、レイプに対するフェミニズム的仮説と進化心理学的仮説を比較した場合、圧倒的にフェミニズム的仮説のほうがくだらない以上、もうちょっと進化心理学には脇を締めて頑張ってもらいたいものだ。(8/13)

■レイプについての考察−進化心理学説(4)
『男はなぜ暴力をふるうのか―進化から見たレイプ・殺人・戦争』という本について。なんで男が暴力をふるうのかというと、「雌雄選択」の結果だ、と筆者は主張する。
 まあ人間に関する記述についてはところどころ怪しいので、話半分以下で見ておくのが無難だろう。100%環境決定論はあり得ないが、同様に100%生得論もあり得ない。
 本書の見所は、著者の本業である動物行動に関する記述だ。オランウータンの雄は雌をレイプする。ゴリラの雄は、他の雄との間にできた雌ゴリラの子どもを殺したり、ハーレムを作るために他の雄を殺して雌を奪う。チンパンジーは集団で他の集団のチンパンジーを殺し、勢力争いを繰り返している。それら野性動物の事例がすぐさま人間に適用できるかどうかについてはまったく別の話なのは当然として、レイプ一般に関する知識として動物生態は確認しておく必要がありそうだ。
 しかし論点の飛躍や根拠薄弱のままで断言してみたりと学術的な論考としては問題があるが、一般向けに書かれた本ということを考えれば、これくらい扇情的でないと売れないということか。(8/14)

■レイプについての考察−進化心理学説(5)
リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子 <増補新装版>』について。
 一般的には「ミーム」という概念を提唱した本として知られている。もちろんレイプについて直接触れられているわけではない。が、進化心理学の親玉のような古典(ドーキンス自身は社会生物学)だから、賛成にしろ反対にしろ押さえておく必要がある。「雌雄選択(あるいは性淘汰)」というものが、生物の行動に如何に影響を与えるのかが、ゲーム理論を元に考察されている。その妥当性は各々で検討するにしても、ゲーム理論的な考え方抜きで形而上学的に「男のセクシュアリティ」を決めつけるのがナンセンスであることだけは間違いない。「レイプ」でいえば、それを何かしらの「現象」として把握しようと努力しようとするのであれば、「男性が採用し得る戦略」の一つとしてゲーム理論的に扱うのが妥当なように思う。まあ、最初からレイプを「現象」として把握することを放棄して、「政治」として扱おうと考えている人ばかりなので、この妥当な方法論が採用されることはめったにない。男性だろうが女性だろうが、レイプを政治的に利用可能なネタとして消費したいだけということが、この間の言説を見ていれば、だいたい分かろうというものだ。
 さて、ドーキンス『利己的な遺伝子』は、遺伝子の振る舞いをゲーム理論的に解釈する。一方、社会学や経済学では行動理論の分野でゲーム理論が採用されている。たとえば宮台真司『権力の予期理論』はゲーム理論を論理的枠組として書かれた本であって、要するに現象としての「レイプ」を把握する際に、『利己的な遺伝子』と同じように理論的な枠組となりえる。進化心理学の枠組でレイプを考察しようとする際、向くべき理論的方向はこちらであって、間違っても竹内久美子を真に受けようと言いたいわけではない。進化心理学によって「生得論」を正当化するのではなく、レイプにおける「権力の場」と男女双方の「振る舞いの選択肢」を洗い出す道具とするべきなのだ。(9/6)



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